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高松城 玉藻公園

高松城、玉藻公園に行きました。
外の景色は昔から よく眺めていましたが、
中に入るのは、はじめて。

入場料、大人200円也。

玉藻城の朝の景色を写真で紹介します。

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まずは、城の外側をぐるりと一周しました。
高松城は、平城の中でも、水城と呼ばれる城です。
日本三大水城のひとつです。
水城は、高松城、今治城、中津城(以上、日本三大水城)、高島城、膳所城などです。

水城とは、海岸、河口などに築かれた城です。
高松城は、当時は そのまま海に面していたようです。

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まずは、西門前の景色から。
JR高松駅や、バスステーション、琴電 高松築港駅に近いので、
入口周辺では、もっとも賑やかです。
近くで採れる庵治の石の宣伝もされています。
石垣は、古くは野積みがありました。
城に使われる石垣は、野積み、打ち込みハギ、切込ハギに大別されます。
野積み または野面積みは、石を積み上げて作る石垣。
打ち込みハギは、石を打ち込んで形を整えたり石垣を強くする積み方、
切込ハギは、石を形よく切って積み上げる石垣だったと思います。
細かく分けると、他にも いくつかの方法がありますが、
写真の石垣は、基本的には打込みハギで、角は切込ハギのようです。

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北側の景色です。
北の丸 月見櫓 水手御門などがあります。
この門は、水上から船でやって来た時のための門です。
堀に向かって、門のある景色は珍しいものです。

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東側の景色です。
かつての櫓跡のような石垣は風情があるのですが、
現在では、石垣をまたぐように建物ができています。

香川県県民ホールが、上からまたいでいるような感じです。
めげずに歩いていると、楽しい案内看板をみつけました。
歩いてみると、いろいろな発見があるものです。

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東門の周辺です。
このあたりは、ふたたび風情を取り戻してきます。
朝の散歩が気持ちいい感じです。

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城の北側には、琴電の線路と道路があります。
いろいろな色の電車が通りすぎて行きます。
伊藤園の緑の電車は、目に優しそうで好きです。

それでは、いよいよ高松城の中。。。
続きからどうぞ。。


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『オーロラに駆けるサムライ』 和田重次郎

松山市出身だけど、意外に有名じゃない人。
でも、実は かなり 凄いヒトです。

和田重次郎さん
「オーロラになったサムライ」 で、
松山市内では、かなり有名になりました。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

和田重次郎

和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月6日 - 1937年(昭和12年)3月5日)は、
北米、アラスカ、カナダで著名なマッシャー(犬橇使い)。
金鉱発掘やトレイル開拓、遭難船救助など行う。
アラスカで行われる屋内マラソンランナーとしても三度の優勝を飾る。


1875年(明治8年)1月6日、愛媛県周桑郡(現 西条市)小松町に源八、セツ(後妻)の次男として生まれる。源八の先妻、アキには二人の男子がおり、和田家としては四男にあたる。 1879年(明治12年)、四歳のときに父、源八が死去し、母、セツとともに、セツの実家のある愛媛県温泉郡素鵞村(現 松山市日の出町)に身を寄せる。

1891年(明治24年)、16歳で、「アシはアメリカに渡って住友になるぞな」という言葉を残し、松山を飛び出す。

1892年(明治25年)、17歳のときにアメリカに密航。サンフランシスコに到着するも、北氷洋捕鯨の補給船バラエナ号に売られ、3年間をケビン・ボーイとして過ごす。越冬のため停泊していたカナダのマーシャル島でイヌイットやその犬橇と出会い、交流を深める。

1894年(明治27年)、バラエナ号との契約期間を終え、サンフランシスコに戻る。報酬を日本の母に送金した後、アラスカに戻り、犬橇を駆って、狩猟で得た毛皮で交易を行う。

1896年(明治29年)、日本に帰国し、3ヶ月後に再び渡米、補給船ジェニー号の乗組員として、ポイントバーローに寄港。遭難していた捕鯨船ナパック号の救助にあたる。その後、乗船していたジェニー号もスミス湾上で氷に閉じ込められ、食料も尽きる頃、重次郎が犬橇隊を先導し、カリブー猟を行い、ジェニー号と補助船ニューポート号の食料を確保、乗組員の命を救う。その後、補給船の乗組員として、アラスカ各地に渡り、金鉱脈の発掘を行う。

1903年(明治36年)、チェナーでの金鉱発見をいち早くドウソンの新聞に伝え、アラスカ史上に名高いタナナ・スタンピート(ゴールドラッシュ)を引き起こす。

1906年(明治39年)、キングとしてイヌイットの一団と毛皮を売りにノームに現れる。その際、集金した代金を全て盗まれる。重次郎が着服したとの嫌疑をかけられ、留置場に入れられるが、裁判では、二人のエスキモーの証言によって無罪放免となる。この頃、結婚し一人娘、日米子(ヒメコ)=ヘレン・ワダ・シルベーラを授かる。

1907年(明治40年)、ノームの室内競技場イーグルス・ホール竣工記念50マイル競争に出場、優勝を飾る。

1910年(明治43年)、セワードの商工会議所からの依頼を受け、アイディタロッド・トレイルの開拓を行う。

1912年(明治45年)、タバスコ王、マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され、身を隠すことを余儀なくされる。その間もカナダ北部を拠点に北極圏を犬橇で走り回る。

1920年(大正9年)頃には、カナダで石油探査員として活躍、石油シンジケートの代表も務める。

1924年(大正13年)、ノームでジフテリアが大流行し、千四百余人の住民が全滅の危機にさらされるが、レオナルド・セパラと愛犬トーゴー率いる犬橇隊が、アイディタロッド・トレイル開拓時代に、重次郎が走ったルートを逆走して血清を運び、町を救う。

1933年(昭和8年)、母セツが死去、重次郎は母の死を翌年の1934年(昭和9年)に知る。その後、鉱山開発の傍ら、シカゴやアメリカ西部を回り、トレイル開拓や鉱山発掘の体験談を講演して歩く。

1937年(昭和12年)3月、滞在先のサンディエゴで倒れ、三日後に郡病院で死去。マウント・ホープの墓地に埋葬される。

1973年(昭和48年)、ノームでのジフテリア被害を救った犬橇隊の偉業を讃え、アンカレジ - ノーム間、1135マイル(1862キロ)に及ぶ、世界最長の犬橇レース、アイディタロッド国際犬橇レースが開催され、今日まで続いている。

2005年(平成17年)、重次郎の娘日米子の曾孫が見つかる。代表として、Heather O'Hareが重次郎が幼少期を過ごした松山市を訪問。

2007年(平成19年)、重次郎が幼少期を過ごした母セツの故郷、愛媛県松山市日の出町(旧 愛媛県温泉郡素鵞村)の石手川緑地に顕彰碑とブロンズ像が建立される。

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明治から昭和の時代を熱く生きた愛媛県人が、ここにもいます。

和田重次郎顕彰会



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夜行バスで長距離旅行

用事で東京から香川まで行くことになりました。
いつもなら飛行機で、羽田から高松空港への路線ですが、
折り悪く、台風が接近中
出発予定日当日は、へたをすると台風は羽田あたり。

実は、出発予定は土曜日で、土曜日の内に、
香川県に着きさえすればいい状況でした。
飛行機で午後の便に乗ろうかと考えたり、
新幹線でもいいかと思ったりしたのでしが、
初めての「夜行バス」もどうかと思ったりしました。
時刻表を確認すると、新宿を21:15分発、
翌日の7:00には、高松に到着予定です。
しかも料金が、安い!
飛行機なら通常で、約22,000円
新幹線なら約17,000円~18,000円かかるところが、
夜行バスなら、10,000円でOK!
ネット予約も可能です。

四国高速バスの、新宿→高松・丸亀 を早速チェック!
予約してすぐに、チケット購入(コンビニ決済)

初めての高速バスを楽しみに新宿に向かいました。

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新宿バスターミナルは、JR新宿駅西口を出て、
通りを挟んだ奥になります。
ヨドバシカメラを目標にして行けばすぐにわかります。

長距離バスのほとんどは、3列シートとなっています。
どちらかというと中央の列より窓側の列が快適かもしれません。

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旅となるといつものことですが、タバコの好きな人には、
長時間の禁煙が気になります。
フリスクを1箱買っていくのもいいのですが、
バスの場合はあまり心配がいりませんでした。
新宿駅付近の喫煙所で乗車前にいっぷく

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次は、23:00頃に途中停車するサービスエリアでタバコが吸えます。

ここを出発すると社内は、消灯。
外の景色が見えないのは悲しいのですが、
窓の遮光カーテンも閉められて、
寝るしかない状況になります。
座席は、リクライニングが可能です。
フットレストもついているため、思っていたより、よく眠れました。
途上のどこかで台風に最接近するはずでしたが。。。
完全に寝てしまっていました。
目覚める頃には、明石海峡大橋を渡り終えて、
淡路島のサービスエリアでした。
10分間の短い休憩ですが、洗顔とタバコ

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ここからは、外の景色も眺めながら高松へ。
朝なので、ほとんど渋滞もなく高松駅のターミナルに到着。

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眠れなかったら、高松市内で少し休んでから、
目的地に向かおうかとも思ったのですが、
十分元気だったので、早朝から高松城(玉藻城)を散策しました。

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ここで、写真を撮りすぎて、携帯の充電がなくなっちゃいました。。。




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忍たま乱太郎

忍たま乱太郎

尼子騒兵衛さん原作のテレビアニメ。
現在も、放映されています。
もともとは、「落第忍者 乱太郎」だったものが、
アニメ化されるときに、改題されたようです。

基本的には、お子様向けの番組ですが、
いろいろな所に戦国時代や、忍者の様子を織り込んでいます。
コミカルなタッチですが、役にたつことも書かれています。

光ゲンジが歌うオープニング『勇気100%』も大ヒットしました。

猪名寺 乱太郎(いなでら らんたろう)(声優:高山みなみ)
10歳、射手座、O型、摂津国出身。保健委員所属(24巻4章のみ用具委員)。
苗字は12巻の質問コーナーで判明。
身長136cm、体重30kg(アニメ設定)
本編の主人公。先祖代々五流忍者の家系(父親曰く「二流」、
アニメでは「由緒貧しき平忍者」)に生まれ、一流忍者になるために
忍術学園入学をした。父は現役忍者、母は元くの一。クラス一足が速く、
100mを10秒で走る俊足の持ち主。「風雲小僧」の異名を持つ。
しかし不運な生徒が集まると言われる保健委員会に所属しているため、
「不運小僧」とも呼ばれている。絵が得意で似顔絵もよく描く。
素直で明るいお人よしだが、その性格が災いしてよくトラブルに巻き込まれる。
髪が薄く髷が結えないので、ぼさぼさ頭。名前の由来は原作者の酷い乱視から
(苗字は尼崎市の地名)。3人組のまとめ役で二人の暴走を止める役。
しかしこれが災いして、主人公でありながらきり丸やしんべヱが乱太郎よりも
目立ってしまうことも多い。初期のアニメだと牛乳、ラジオ体操、巻物が
好きというオリジナル設定が存在した。語尾に「〜らん!」と付ける口癖もあった。
トーク術が上手く、お年寄りから話を聞きだせる特技がある。好きな言葉は努力。

摂津のきり丸(せっつの きりまる)(声優:田中真弓)
10歳、牡羊座、B型、摂津国出身。図書委員所属(24巻4章のみ用具委員)。
苗字は無い事が12巻の質問コーナーで判明。
身長140cm、体重34kg(アニメ設定)
戦で村を焼かれて家と家族を失い、天涯孤独に。学費と生活費のため
日夜アルバイトに勤しみ、逞しく生きる。そのせいか異常なドケチで、
一度掴んだ物を放さない。「タダ」「安い」等の言葉に弱く(「タダ働き」は別)、
「くれ」「払う」等の言葉に拒絶反応を示す。銭のことを考えると目が小銭になる。
数キロ先にある小銭を発見し、音や臭いで銭の真贋を判別できる。
銭の単位がつけば八桁同士の掛け算を暗算でこなす。ソロバン3級。商売上手。
性格は過酷な生い立ちゆえか、歳の割に冷めているが、
基本的に調子が良い世渡り上手。乱太郎達に「無駄遣いしないのに
無駄口はたたく」と言われる。長期休暇中は土井先生宅に居候し、
引き受けたアルバイトを強引に手伝わせている。女装が上手い。
日銭屋おりんはドケチの師匠としてアニメでは絡みが多い。
アニメでは黒いスカーフを巻いている。
名前は気性が錐のように尖っている事から。

福富 しんべヱ(ふくとみ しんべえ)(声優:一龍斎貞友)
10歳、牡牛座、A型、堺出身。用具委員所属(24巻4章のみ図書委員)。
苗字は12巻の質問コーナーで判明。
身長125cm、体重62kg(アニメ設定)
おっとり・のんびりした性格で大食らい。実家は大貿易商「福富屋」。
機敏さを身につけるため、父親の意向で忍術学園に入学した。
趣味は寝ること、食べること。長期休暇の度に体重が増え
(39巻の時点では文次郎曰く十八貫(約67.5kg))、水に浮かぶ体質で
水中に潜れず、足が遅い(ただし緊急時は速い)など忍者として不向きだが、
物凄い怪力。また鼻炎気味だが、犬より優れた嗅覚を持つなど忍者として
有能な一面もある。鼻水は武器に使われる。濡れた髪は剣山状の武器へ変わる。
かつ石頭。虫歯、耳垢の量が凄い。ワカメが苦手。アニメではお団子が大好物。
知らない知識があると、目が離れる。初期は鈍臭い泣き虫だったが、
忍術学園内で鍛えられた。憎めない人柄で「順忍」の素質がある。
カメ子という出来の良い妹がいる。アニメでは10歳にして
相思相愛の恋人・おシゲがいる。名前の由来は福富草子。

1993年4月10日からNHK総合テレビで、1994年10月3日からは
NHK教育テレビで放送されている(字幕放送)。
アニメ化に際し、原作題名の「落第」 という言葉が、
放送局であるNHKではタブーとなっているため、「忍者の卵」、
略して「忍たま」に変更された。
1996年6月には劇場版アニメ『映画 忍たま乱太郎』が公開された。

開始当初は総合テレビで土曜18時10分開始の30分番組であったが、
半年の休止期間を挟んで1994年から教育テレビで
毎週月曜 - 金曜17時50分開始の10分番組として復活。
2003年4月から18時開始に変更となり、さらに2004年4月から
現在は18時10分に放送。2005年度からは再放送枠として
土曜日の放送が復活、1年間のブランクを挟み再び2007年度から
放送されている。最初期の放映分では、戦国時代の設定から
戦死者の描写などがあり批判を受け、以後かかる描写はなくなった。
高校野球期間中は休止または放送時間を繰り下げされることが多い。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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はるな愛

はるな愛

きれいですよね。
動画も集めてみました。



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女の子だったら、こんなに気にならないのかもしれません。

はるな愛(はるな あい、1976年7月21日 -)は、日本のニューハーフタレント。
所属事務所はサンズエンタテインメント。

物心ついた頃から自分が女性だと意識していたと言う先天的な性同一性障害。
小学生時代から、女装してものまね番組などに出演
(その際の字幕スーパーでは「大西賢治」と表示される)。
持ち歌は松田聖子の「Rockn' Rouge」など。

1985年3月3日放送の『全日本ちびっこ歌まね大賞』(テレビ東京)では、森進一の「北の蛍」を歌って優勝している。

1989年、福井県の九頭竜湖で行われた某英語学校の夏季キャンプ(小学生向け)で、未来派少年大西賢示としてリクリエーションにゲスト出演している。この際に、男子高校に通っていたことを話している。

1991年、ショーパブ「Tootsie」梅田店で働く。父親に性同一性障害であり、ニューハーフとして働いていることを告白。

1995年、大阪市・わだ形成クリニックにて性別適合手術を受け、身体的に完全に女性となった。しかし、戸籍上の名前は現在も「大西賢示」のままである。

1996年頃、春菜愛名義で、『快傑えみちゃんねる』にレギュラー参加。以後はアイドル系美形ニューハーフとして、テレビ番組のニューハーフ特集やものまね番組に顔を出している。また、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などにも出演し、メディア露出が多くなる。素人扱いとしては、『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー』のファイナル電流イライラ棒に一般のチャレンジャーとして登場している(チャレンジ中、アナウンサーから「実は男性です」などと紹介された)。

1998年、東京のタレント事務所に所属、上京。DDTプロレスリングで世界初のニューハーフ・マネージャー・デビュー。しかし、この頃の芸能界はニューハーフブームが下火となっていた為にタレントとしての活動はほとんど出来ていない。だが、男性であることを隠して働いていたレースクイーンの仕事などで蓄えた貯金でスナック店を開業するなど、事業家として活躍するようになる(2008年現在は、バー1店、鉄板焼き店を2店経営している。鉄板焼き店を経営しているのは、実家が以前お好み焼き店を経営していたことがきっかけ)。

2005年、サンズエンタテインメントに移籍。現在の名義に変え、タレント活動を再開する。

2007年、陣内智則・藤原紀香夫妻の結婚披露宴の2次会で「エアあやや」を披露、その場に居合わせた業界人の注目を集め、モノマネ芸人(あてぶり芸人)として活動するようになる。持ちネタは、松田聖子・松浦亜弥・島谷ひとみ・ビヨンセ・藤本美貴・ホイットニー・ヒューストンなどのモノマネと、横向けにしたVサインを目頭から目じりに移動させて「よろしくピース」などのギャグ。口癖は「言うよね〜」[3]。最近はそれを始めとして、いろいろな「○○よね〜」を言うようになっている。

2007年、Miss International Queen 2007(ニューハーフ世界のミスコン)に出場し、第4位になる(このコンテストにでるため、審美歯科的治療をしている)。

2008年、骨髄バンク職員の役で舞台(imagine911)出演。

はるなを女性と勘違いしたほっしゃん。にプロポーズされたことがある。最終的に、ほっしゃん。に実名入りの免許証を見せて断った。そのエピソードがあるため、ほっしゃん。・はるなが共演する仕事もしばしば。

同じ事務所のMEGUMIと仲が良く、一緒にサウナに行ったりするという。


2007年後半頃から、歌手が歌う音声を流し口パクで振り付け・仕草・表情・息づかいさらには、MCなどを合わせる芸で注目されるようになった。ものまね芸でよくあるように、面白くデフォルメされている。

エアあやや
松浦亜弥のコンサートライブの音声(複数のDVDから編集して作っている場合が多い)を用いるネタ。歌だけでなく、MCの口パク、息づかいも合わせているところにはるなの芸の新しさがある。

元々は、スナックのママであるはるな自身が披露していたもの。当時は歌も歌っていたが、ショーパブやスナックでの付き合い酒などの無理がたたり、高い声が出なくなったために仕方なく無声へとシフトしていった。

最初の曲とMCには様々なバージョンがあるが、最後には必ず「Yeah! めっちゃホリディ」で締める。ちなみに「Yeah! めっちゃホリディ」の途中の「ずばっと」のフレーズで、がに股で腕を横に引くアクションをとり、最後に服の上から乳首をこするアクションは、はるな独自のもの。また、ほかの振りも松浦亜弥そのままでなく、はるな風にアレンジされている(マンネリ化を防ぐ為か上記の「ずばっと」のアクションと乳首をこするアクション以外は披露する場などで若干の変化が見られる)。

『あらびき団』にはこの芸で度々出演しており、あらびきあややと呼ばれている。この芸で『R-1ぐらんぷり』に出場し、1回戦を突破した。

2008年6月2日放送分の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』では、エアあややを本人の前で披露し、「公認モノマネ」認定の盾を渡されるなど松浦本人はエアあややを好意的に見ている。松浦との初対面である、2008年5月22日放送分の『きよしとこの夜』(NHK総合)以降[5]も幾度か共演を果たしており、松浦はその都度エアあややを認める発言をしている。

なお、松浦本人により、2008年5月29日放送分の『とんねるずのみなさんのおかげでした』新・食わず嫌い王決定戦の罰ゲームとして「あややのものまねをするはるな愛のものまね」が披露されている。自身のコンサートツアー『AYA The Witch』では幾度と無くエアあややの真似をした曲紹介を披露している。 2008年6月25日の東京厚生年金会館での公演に、松浦の誕生日を祝うサプライズゲストとして出演。約2000人の松浦ファンを前に、松浦の生歌による生エアあややを披露した。2008年の誕生日プレゼントを松浦亜弥からもらっている。

エアあややの衣装は現在は青いフリルの衣装(タイで約3000円で購入したもの)が多いが、初期では黄色い衣装を着用していた。また『エンタの神様』ではピンクのフリルの衣装を着用している。最近では普通の衣装でもエアあややをする機会も増えている。

エア松田聖子やエアホイットニー・ヒューストンというネタもある。テレビでの初披露は2008年7月23日放送の『関ジャニ∞のジャニ勉』だが、ライブイベントではかなり前からやっていた。

2007年5月27日放送分の『ハロモニ@』ではミキティこと藤本美貴のエア芸(エアミキティ)を本人の前で披露。また2008年6月18日放送分の『明石家さんちゃんねる』では次長課長と明石家さんま相手に「マンツーマンミキティ」(エアミキティで相手にカワイイと思わせる)というゲームを行った。

2008年8月18日放送の『SMAP×SMAP』では、松浦亜弥とともに「BISTRO SMAP」にゲスト出演し、中居正広本人の前で、新ネタ「エア中居」を披露した。

はるな愛の AI am a girl

はるな愛の AI am a girl

鉄板焼きダイニング A・garden

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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スバル360

スバル360

国産初の本格軽自動車です。
Wikipediaの記事と写真を参考にしながら、この車を考えてみましょう。
現在、40歳代以上の人なら、見かけたことがあるでしょう。

スバル360001

スバル360は、フォルクスワーゲンが「かぶと虫」の愛称を与えられたように、
「てんとう虫」の愛称をもらっていました。



出典 フリー百科事典「Wikipedia」

スバル360(SUBARU 360)は、富士重工業が開発した軽自動車である。
1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。

清算が開始されたのは、約50年前からです。
12年間作られたので、製造終了は、約38年前ですね。(2008年現在)

航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られたスペースで
必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが、数多く導入された。
その結果、量産型の軽自動車としては、史上初めて大人4人の乗車を
可能とすると共に、当時の水準を超える走行性能を実現した。

比較的廉価で、なおかつ十分な実用性を備えていたことから、
1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の
一翼を担った。ゆえに日本最初の「国民車(大衆車)」と評されると同時に
「マイカー」という言葉を誕生・定着させた車であり、日本の自動車史のみならず
戦後日本の歴史を語る上で欠かす事のできない「名車」である。

範となったフォルクスワーゲン・タイプ1のあだ名となっていた「かぶと虫」との
対比から、また、そのコンパクトにまとめられた軽快なデザインから、
「てんとう虫」の通称で庶民に広く親しまれた。

作ってみたいですね。
この車の 「てんとう虫バージョン」。。

てんとう虫

誰も乗りたがらないかも !?



スバル360発売以前の1950年代中期、日本における国産乗用車は複数の
大手メーカーから発売されていた。しかしその価格は、
小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収が僅かに
数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものであった。

軽自動車の規格自体は1949年から存在したが、もっぱら2輪車や3輪トラックを
製造することを念頭に置いた規格であり、これに準拠して4輪の乗用車を
製造する大手メーカーはほとんど無かった。

史上初の4輪軽乗用車は、1952年に製造された250cc車「オートサンダル」と
見られている。名古屋の零細メーカーである中野自動車工業が、
三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、
リアエンジン2人乗りのフリクション・ドライブ車であった。
およそ通常の実用に耐えうる性能ではなく、1954年までに200台ほどを製造し、
その後前輪駆動モデルの開発を行ったが量産化せずに生産中止したと
言われている(中野自動車については零細企業のためほとんど資料が
残されておらず、詳細は不明である)。

オートサンダル001

こんな車だったそうです。「オートサンダル」
扉の後ろのレバーは?
エンジンを始動するキック?

その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行った。
「NJ(のち『ニッケイタロー』)」(日本自動車工業 1953~1957)、
「テルヤン」(三光製作所 1957)などは、何れも零細企業が技術的裏付けの
薄いままに急造した粗末なもので、長続きはしなかった。

元日産自動車社員で、野心的な自動車技術者の富谷龍一は、
大手織物メーカー傘下の自動車ボディメーカーである住江製作所で、
超軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」を開発した(1954~1955)。
リアエンジンV型2気筒の350cc・2座席である。
4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、
前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多かった。
数十台が市販されただけで製造中止となった。
富谷は後輪を1輪としたFRP製フル・モノコック車体の
125cc2座キャビンスクーター「フジキャビン」を、
富士自動車(東京瓦斯電気工業の後身。富士重工の前身・富士
自動車工業とは全く無関係なメーカー。のち小松ゼノアに吸収)で
開発したが(1956)、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、
85台しか作られていない。

比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に
進出していた鈴木自動車工業(現・スズキ)で、1955年に
前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発した。
これは実質は、西ドイツ・ボルグワルト社(Borgward)社の
ミニカー、「ロイトLP400(Lloyd LP400)」を軽自動車規格に
縮小したような設計で、外観も酷似していた。
乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、
乗用車タイプは名目上は大人4人が乗車できたが、実際は
後部座席は子供が精一杯の広さだった。
だが乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を
折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとなった。
このライトバン仕様「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、
スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の
「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降であった。

このころに、愛知機械工業が、かわいらしい車を作っています。
その名も、「コニーグッピー」
スポーツモデルもありました。

コニーグッピースポーツ001

全長  2,565mm
全巾  1,265mm
全高  1,290mm
強制空冷2サイクル 総排気量 199cc
最高出力  11PS
乗車定員  2人
最高速度  80km/h
最大積載量  100kg
燃費率   30km/リットル

すごく、省エネな自動車ですよね。
今、これに乗って道路を走るのは、怖いかも。



富士重工業の前身で、旧・中島飛行機を前身とする富士産業株式会社は、
群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、
1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げていた。
また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で
好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスに倣った、
フレームレスモノコック構造(応力外皮構造)のリアエンジンバスを、
日本で初めて開発している。何れも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や
金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功であった。

その後、1950年にはGHQ指令による財閥解体で富士産業は計12社に分社され、
太田呑竜・三鷹の各工場は富士工業(株)に、また伊勢崎工場は
富士自動車工業(株)に改組される。

これら12社のうち、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、
大宮富士工業、宇都宮車両の5社が協同出資して
1953年に「富士重工業」が設立され、のち出資した5社が
1955年に富士重工業に吸収合併されるという形で統合された。


1955年12月富士重工業は、スバル1500本格発売断念と同日に
当時三鷹製作所で生産していた250ccのスクーター用エンジンの
生産ラインを流用し、356ccの軽自動車用エンジンを製造すること、
これを基にした大人4人乗りの軽自動車の生産を計画した。
これは、当時の通商産業省が企画した「国民車構想」を凌ぐ自動車である。

1955年当時、日本製自動車の品質・性能は欧米の自動車先進国と比較して
著しく低いものだった。

1954年9月に「新・道路交通取締法」が施行され、
全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000という寸法は
そのままに、2ストローク、4ストロークエンジンともに
排気量が360ccに統一された。

現在の軽規格660ccになるのは、ずっと先の話です。
途中で、550ccの規格もありました。。

この新規格に沿い、一定以上の完成度を備えて市販された
最初の本格的な軽四輪乗用車は、1955年10月に発売された
鈴木自動車工業の「スズライトSF」であったが、
当時の軽自動車市場はまだ確立されておらず、
当初は月販数台というレベルで細々と生産されているに過ぎなかった。

スズライト

スズライトって、こんな車だったそうです。
あまり、見た記憶はありませんが子供の頃に、見ているかもしれません。



その他、何例か市販され、或いは試作された軽乗用車は、
技術力の乏しい中小零細メーカーによる未熟な製品か、
ある程度の規模がある既存機械メーカーの手になるものでも
技術的アプローチにおいて革新性を欠く製品が多かった。
乗用車タイプのほとんどすべてが開発の容易な2人乗り車であり、
その最高速度は45km/h~65km/h程度の低水準に留まっていた。

しかし富士重工業は、大人4人乗車可能、路線バスの通る道は
すべて走れる車というコンセプトの元、大胆な手法をもって
軽乗用車の開発に挑んだ。その計画スペックは、軽自動車規格の
枠内で大人4人を乗せることができ、空車状態での総重量は350kg、
350cc級の15PSエンジンを搭載して最高速度80km/hを想定するもので、
もはや従来の既成概念では実現困難な内容であった。


フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、
後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式を採り、
サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング
(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めて
コンパクトな構造として、車内の客室容積確保を図った。
タイヤは当時としては異例の10インチサイズを、
これまた新規開発させて日本初採用した。

スバル360

それまでの軽自動車・オートバイでしばしば見られた、
既にある出来合いの部品を組み立てて製造する
(町工場的な寄せ集めの)アッセンブリー方式ではなく、
目的達成のために部品1つ1つを最適化した形で新たに
設計するというレベルの高い手法を用いた。
10インチタイヤの新規開発や、トーションバー・スプリングの
導入はその最たるものである。そして、ねじもスバル360用に
独自に設計されており、富士重工業のマークの「フ」の刻印を入れた
純正ねじとなっていた。軽量化と客室スペース確保のためには
文字通り手段を選ばず金も惜しまず、コストのかかる加工法や、
アルミニウム合金、繊維強化プラスチック(FRP)などの
高価な新素材も大胆に取り入れている。

2ドア4窓セダンボディ。日本の自動車業界において、
独立したフレームを持たないフル・モノコック構造を量産車で
実現した先駆的存在である。

当時、自動車ボディを構築するための鋼板は、最低でも0.8mmの
厚さが必要と見られていたが、これでは軽量化の支障となると判断された。
そこで、それまで通常強度部材には用いられていなかった0.6mm厚の
鋼板をボディ素材に採用した。それでも十分な強度を得るため、車体は
平面部分を避け、全体に「卵形」と表現される曲面で構成された
(ただし、フロアパネルについては強度上の問題もあって1.2mm厚とした)。
更に本体強度に影響のないフード等にはアルミ材も用いている。

スバル360002

屋根については、四辺の枠だけあればモノコック構造の強度は保てる。
そこで天井部分は思い切って当時の新素材であった
FRP(強化プラスチック)製とし、H断面のゴムで車体に固定する方式とした。
これによって軽量化できただけでなく、全体の重心が下がり、
また車内に響くエンジン騒音を車外に逃せる効用も生じた。
もっとも生産形では、H断面ゴムのみで固定したせいで走行中の
振動によってプラ屋根が突然に外れる問題も発生し、
ネジ止めの補強が加えられている。また必要に応じ、屋根のふちに
ラジオ用アンテナ線を内蔵することも行われた。

ガラスは重量がかさむこと、またボディ開口部を小さくする目的もあって、
フロントのウインドシールド及び側面窓は比較的面積が狭く取られている。
ユニークなのはリアウインドウで、ここには安全規格上、ガラスを用いる
必要がないことから、透明なアクリル樹脂板で代用することにした。
軽量化の効果はあったが、長く使用すると変色が生じたという。

ドアは前席側のみの2ドアで、後方ヒンジ・前開きとし、
ドア開口面積を前輪直後まで確保して、乗降性を良好にするよう努めている。
安全性の面からは前開きは好ましくなく、このレイアウトは後年には廃れたが、
1950年代半ばには乗降性の有利さから採用する自動車の例も多く、
スバルが特異だったわけではない。

扉開放001

昔は、このタイプの前開きの車も多くありました。
「観音開き」と、呼ばれていました。

愛嬌のある卵形デザインには、強度確保も兼ねて、
フロントフェンダーからサイドに至る波形のキャラクターラインが添えられ、
そのままでは腰高過ぎるように見えかねない
サイドビューを軽快にまとめる助けになっている。



初期形の車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、
軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれている。
空機開発の経験を先例として可能な限り軽量化に
徹した開発陣の意図が伺える。

ステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで
部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に
配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一である。
これまた最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わる。
ダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、
荷物スペースの一助となっている。ドア窓は当初、横引きスライドの
引き違い窓だったため、ドアパネル部分は客室内部容積の
一部として上手く活用されていた。

zp004_5.jpg

フロント・サスペンションにトーションバーとトレーリングアームの
組み合わせを用いることで、前席足元のレッグスペースは
前車軸中心線より前方にまで及び、前輪のタイヤハウスによって
片側を圧迫されはするものの、ともかく大人が足を伸ばせるだけの
最大長確保に成功している。運転席足元は右足側をタイヤハウスに
取られているため、アクセル・ブレーキ・クラッチの各ペダルは、
車体センター寄りにオフセットしている。従って運転中には、
両脚についてオフセット状態を強いられる。



強制空冷2ストローク直列2気筒・356ccエンジンを車体後部の
エンジンルームに横置き搭載している。
当初のスペックはグロス値で16PS/4,500rpmであった。

zp004_4.jpg

エンジンその1




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家族構成は、大学生の長女、社会人1年生の次女、小学5年生の長男と、奥さまと、ぱぱ。ネコがいなくなちゃった。
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