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日航機御巣鷹山墜落事故  「クライマーズ・ハイ」




日本航空123便墜落事故

1985年8月12日午後6時56分、日本航空(当時)123便、
東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(「ジャンボジェット」、
機体記号JA8119)が群馬県多野郡上野村の高天原山に墜落した事故である。

事故調査は、「同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の
修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因」とする
航空事故調査報告書が1987年6月19日に公表され終了している。
一部に再調査を求める声があるが、航空事故調査報告書を
決定的に否定するような新たな証拠は発見されておらず、
再調査は行われていない。




運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、
死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、
単独機の航空事故では世界最多である。

乗客の中には著名人が多数含まれていた。
また、夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより
乗客が多かったこともあり、企業の役員や外国人、家族連れの犠牲者も多かった。

社会全体に大きな衝撃を与えたため、一般的に『日航機墜落事故』
『日航ジャンボ機墜落事故』と言う場合、この事故を指すことが多い。

本事故により、同年8月19日に登録抹消される。
日本の航空会社が旅客機として運航しているボーイング747で、
墜落事故によって登録を抹消されたのは、
2008年6月現在に至るまで本機のみである。

機体記号 JA8119
型式 ボーイング747SR-46
製造年月日 1974年1月30日
製造番号 20783
耐空証明 第48-028
総飛行時間 25,030時間18分
総着陸回数 18,835回
新規登録年月日 1974年2月19日



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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型式 747SR

世界でも、日本の航空会社である日本航空と全日本空輸の2社のみが
ボーイング社に発注している747の特別仕様である
(747SR-46の46は日本航空のボーイング社におけるカスタマーコードであり、
また100型の場合通常百の桁は表記しない。全日本空輸のカスタマーコードは81である)。
SRとは「Short Range(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運航する
航空会社が幹線及び準幹線に投入する目的に特化している
(1990年にボーイング社は747在来型の受注を打ち切るが、
この仕様は747-400Dとして受け継がれている。
これも世界で日本航空と全日本空輸の2社のみが
ボーイング社に発注している特別仕様の747である)。

空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに、
一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、
従来の747ベースに1〜2時間程度の短距離飛行用に設計された。
短距離便ではあまり必要のない機内のラバトリー(トイレ)や
ギャレー(調理室)を減らして座席数を増やしている。
また、国際線仕様の747では備え付けられている長距離飛行用の
燃料タンクを搭載していない。
その他に離着陸が頻繁であるため降着装置を強化、
重量が重い状態で短い滑走路へ着陸する際にブレーキの摩擦熱で
発火するのを防ぐため強力な冷却装置を取り付ける等の変更がなされている。

また、頻度の多い離着陸によって、国際線よりはるかに多い
高度変化による気圧の変化で機体に負担がかかるため、
金属疲労の進行を抑える加工も施されていたが、
皮肉にもJA8119はボーイング社による隔壁の修理ミスと、
検査での金属疲労の見落としによって墜落した。



事故の経過

本事故は、機体JA8119にとっては3度目の事故である。

墜落前の事故

1978年6月2日、東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港へのフライトで
着陸しようとした際、パイロットが操縦桿の操作を誤ったため、
機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎ、
滑走路に機体尾部を接触させるしりもち事故を起こし、
機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生。
この事故での圧力隔壁のボーイング社における修理ミスが
日本航空123便墜落事故の引き金になったとされている。

1982年8月19日、羽田空港から千歳空港へ飛行し着陸の際、
機体が右に逸れ誤って第4エンジンを地上に接触させたため、
機長は着陸をやり直した。原因は天候による視界不良である。

なお、後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、
本墜落事故の直接の原因にはなっていない。


事故当日のJAL123便

当日の123便は18時00分羽田発、離陸後は南西に進んだ後、
伊豆大島から西に巡航、串本上空で北西に進み、
18時56分伊丹着のフライトプランであった。

フライトに使用されたJA8119は就航以来約18800回飛行し、
当日は503・504便で羽田〜千歳、363・366便で羽田〜福岡を往復し、
123便で5回目のフライト。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の
最終便を運航する予定であった。
また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。

乗務員は、高濱雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、
福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピット・クルーと、
波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人。
乗客は509人。
コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、
クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、
無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。
当日、航空機関士は363便と366便でJA8119に、
副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、機長は当日最初のフライトであった。

18時04分に乗員乗客524人を乗せた123便は定刻をやや遅れて
羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15から離陸した。
搭乗方式はボーディングブリッジではなく、
沖止めで搭乗機連絡バスによる移動での搭乗であった。

18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の
24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで異常事態が発生する。
突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、
その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、
油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう。
フゴイドやダッチロールを起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、
クルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。
18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段として
ランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、
山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、
高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。
その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県上空で左へ旋回、
群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。

機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、
プリレコーデット・アナウンス]が流れた。
乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、
シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。
また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。
男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、
機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。
なお、生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落まで
さほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。
その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて
頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。
乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で
懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。
これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。

なお、客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、
機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には
幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、
身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか
「予告無しで着陸する場合もある」との放送、
「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。
また墜落現場からは、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた
一人の客室乗務員によるメモや、
異常発生後のキャビン内を撮影したカメラが見つかっている。

123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、
信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。
直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、
ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。
ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、
機長は遠回りとなる右旋回を希望した。
羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。

27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。
続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答は無かった。
またACCは、日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。
ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。
通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、
123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、
以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。
33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、
35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、
その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで
無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
40分 ACCは123便と他機との交信を分けるため、
123便専用の周波数が準備され、
123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答は無かった。
42分 逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、
交信は指示があるまで避けるように求めたが、
一部航空機は通常周波数で交信を続けたため、
ACCは交信をする機に個別で指示し続けた。
45分 無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(RAPCON)が
123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に
変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。
ACCが東京(羽田)アプローチ(APP)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。
47分 123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求め、
ACCは真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、
123便から「アンコントローラブル」(操縦不能)と返答がきた。
その後、APPの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。 
49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で
3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分 ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と
無線が入ってくる。ACCとRAPCONが返答、RAPCONは、
横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。
ACCもAPPの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
54分 日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。
123便から現在地を尋ねられ、APPが羽田から55マイル(100km)北西で、
熊谷から25マイル(45km)西と告げる。
55分 (この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)APPから
羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、
航空機関士が「はい了解しました」と返答する。
この言葉が123便からの最期の交信となった。
その直後にAPPが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答は無かった。
その後も56分前までAPPとRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが
応答は無いままだった。
57分 RAPCONが123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65km)地点におり、
横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、ACCも123便に対して
横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、既に123便は墜落していた。

衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で
羽田空港への引き返しを要求している。

その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、
羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。
この事は「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。

コックピットボイスレコーダー(CVR)の解析によると、異常発生から墜落まで、
操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、
進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信
・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動による
フラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は
航空機関士がしていたと推測されている。
異常発生直後から油圧操作の効果がほとんど無いにもかかわらず
繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を
最期まで把握できていなかった模様である(操縦席から尾翼部分は
目視できないため、把握できなかったのは致し方ない)。
また、油圧系統全滅を認識しながらもクルーは油圧での操縦を試みている。

CVRには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。
はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。
本来当時のCVRは30 分の 1/4 インチ・エンドレステープレコーダー
(始点と終点の無い輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、
30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである。

18時24分35秒頃、CVRに何らかの衝撃音が録音されている
(衝撃音直後に機長は「なんか爆発したぞ」と言っている)。
直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ギア等の表示)の
点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、
航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)をみませんか」と提案する。
25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。
無線交信の後、機長が副操縦士に対し
「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と
怒鳴る声が記録されている。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。
その際、航空機関士がハイドロが異常に低下している事に気づいた。
27分、異常発生から僅か3分足らずで圧力の喪失を示したとみられる
「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。
(事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。)

同じ頃客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っている為、
とにかく低空へ降下しようとした。
しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体にはフゴイド運動や
ダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。
そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」
「上げろ」という言葉が記録されている。

31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが
破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と
同時に酸素マスク着用を提案、35分、羽田空港にある
日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が
「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。

37分、機長が降下(ディセンド)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や
降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。
これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが
油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはギアの自重により
着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。
この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、
同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

46分、機長の「これはだめかもわからんね」との発言が記録されている。
47分頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。
この頃から山岳地帯へと迷走していった。
右、左との方向転換が繰り返し指示されている。
その会話の中、機長が、操縦している副操縦士に対して
「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。
この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。
48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と
励ますとともにたびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。
この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる
操縦を行いはじめたと思われる。
機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちて
失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ
何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびに「パワー」と指示する声が残っている。
50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。
機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して
副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。
この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、
副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。
51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、
53分頃から機体が安定しだした。

54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、
埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。
その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、
速度が180kt(330km/h)まで落ちた。
パワーと操縦桿で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。
55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、
副操縦士は「はいフラップー10(今10度下がっているという意味)」と返答し、
フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

しかし55分12秒、フラップを下げた途端、機体は右にそれながら急降下を始める。
55分15秒から機長は機首上げを指示。
43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。
45秒、「アーッ」という叫び声が記録されている。
50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、
すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。
この頃高度は10000ft(3000m)を切っていた。
56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが
航空機関士が「あげてます」と返答する。
07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。
機長は最期まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。

この日は夏休み中で、翌日の「お盆の入り」を控えていたこともあり、
休みに入っていた人が多かった。そのため、同機には出張帰りのサラリーマンのほか、
帰省客や、翌日に行われる甲子園球場での
高校野球選手権大会に出場する学校の関係者、
茨城県筑波郡(現・つくば市)で開催されていた筑波科学万博や
東京ディズニーランドなどからの帰宅者、海外からの観光客なども多くの搭乗者があり、
ほぼ満席の状態だった。生存者は4名(全員女性)で、
うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。

歌手の坂本九、元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、
21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガース球団社長の中埜肇、
ハウス食品社長の浦上郁夫、大相撲の伊勢ヶ濱親方(元大関・清國)の妻子、
タレントの吹田明日香の母、大阪大学教授の塚原仲晃、
コピーライターで中島らもの師匠でもあった藤島克彦など、
著名人が多く乗り合わせていたことも大きな関心を引いた。

元・宝塚歌劇団雪組の麻実れいとタレントの明石家さんまは搭乗する予定だったが、
いずれも急遽搭乗便を一本早めたため、
また当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝も夏期休暇で
大阪への帰省で搭乗する予定だったが、妻・晴恵の勧めで直前に取り消し、
新幹線に変更したことから難を逃れた(当時逸見が司会を務めていた
「スーパータイム」は先輩の露木茂が代行を務め、事故発生後の
FNN報道特番も露木が担当した)。
また、有名人と同姓同名の搭乗者がいたため、
テレビ局にこの件について多くの問い合わせがあった。

事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で
全日空機も飛んでおり、日航機に乗るか全日空機に乗るかで、
事故に遭うか否かを分ける結果となった。
またその日その時間帯に限って、羽田空港と浜松町を結ぶモノレールが1
0分程度遅れたために搭乗を逃し、バスやタクシーで羽田空港に向かっていたものの
渋滞に巻き込まれ搭乗できず、結果的に難を逃れた客もいた。

また、新聞等のメディアで公表された搭乗者リストの中に名前があり、
生存が絶望視されていたと思われた最中に自宅に帰宅していたり、
実は乗っていなかったという人も複数(少なくとも3名以上)いた。
これは、本人名義で既に購入していた事故機の航空券を
直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、
その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。

結果的に名義人は難を逃れたが、代わりに搭乗して犠牲になった第三者は
当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への通達も大幅に遅れ、
現場の遺体の識別作業に時間が掛かることとなった。
尚、この件に関しては事故の数日後にマスコミにも知らされ、
後日改めて新聞等に掲載された搭乗者リストでは名義人の名前は削除されている。

なお、阪神の中埜社長の不慮の死で阪神タイガースの選手一同は奮起して
21年ぶりのリーグ優勝→日本一達成を果たしたと言われている。


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